みなさんご存知の(´▽`) その4

「すでに二十五年間、この商売をつづけてきたけれど、どうやらこの辺でやり方を変えた方がよさそうだ」


「ええ、しかし、何が好まれるかが分かりません」


「そうやな、どうしてそれを調べるか、なんぞええ考えがあるのか」


「はい、一つ町行く人にたずねてみたらどうでっしゃろ」


「一人一人にですか・・・・・」


「はい、同じ問いかけをしてみるのです」


いまでいう街頭アンケートだった。


そこで手分けして、行き交う人にたずねることにしました。


「いかがでっしゃろ、いまほしいのは、呉服どすか、それとも太物どしゃうか」


「そりゃ、晴れ着でやろうな。なんでいうたら持ってへんよって・・・」


「鳥丸松原の高島屋をご存じどっしゃうか」


「知らんな。あんたそこの番頭か・・・・・。何屋はんや?」


いろいろ世間の声を聞いた結果、高島屋は、木綿と呉服を扱うことにしました。


呉服は、京織物の本場の京都にいるのだったから、いくらでも仕入れの方法はあったが、木綿の方は河内が本場でした。


そこで新次郎は河内へ仕入れに行くことにしました。

みなさんご存知の(´▽`) その3

新七にとって幸運だったのは家つき娘のお秀がよくできた女性だったことで、高島屋の繁盛は、お秀の内助の功に負うところが大きかった。


嘉永四年(一入五一)、娘のお歌に婿養子を迎えた。


花婿は寺町通今出川に住む上田家の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な二十六歳の青年だった。


義父となった初代新七はこの時五十歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とともに家業に精を出した。


ところが、なにぶん幕末のことなので、時代変転の速度は速く、しかもくるくると変転していきました。


世の中が変われば商いも変わらなくてはなりません。


飯田新七父子は、これからの商いについて協議しました。

みなさんご存知の(´▽`) その2

この店が、いわば今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は三年ほどで買い取ってわがものとした。


時あたかも老中水野忠邦が節約政策を打ち出した時で、新七は、新調の呉服をやめて、これからは古着専門でいこうと方針を決めた。


ところが高島屋の隣もまた古着屋で、これではお隣に負けそうだというので、彼は、隣の開店時間より半刻早く起きて、店を開けることにしました。


それも早朝の六時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。


そのため高島屋はよく気張るといって評判を呼んだ。


この評判がやがて信頼の因となりました。


古着を主体として、営々と商いに励んだので、一年また一年と信用がつき顧客もふえていって、営業規模がだんだん大きくなってきた。

みなさんご存知の(´▽`) その1

"松原の高島屋です。正札掛け値なしで商売をさせてもろうとります"


彼はその頃、四つの戒めを考えて、おのれの信条としました。


その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益をはかるべし。


その二、正札掛け値なし。


その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。


その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。


客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らにいい聞かせました。


天保元年(一八三〇)、烏丸通松原上ル西側、北から三軒目の借家を、家賃月一歩二朱二百文で借り受けた新七は、十年目の再出発をはかったのです。


その頃、彼は、五条通新田東入ルに店をもつ"菱弥"呉服店主青井孫兵衛に見込まれて、後援を受けていたので、資金の点でも、仕入れについても、昔ほど苦労しなくてすんだそうです。

眠りについて

上半身は知らずしらずのうちにベッドの足もと側に向きはじめていて、この上半身が約四十五度回った時には足はまっすぐになり、同時にベッドの上におりていなければならないわけであって、この点がいささか訓練を必要とする困難な業といえよう。


むろん決して至難の業ではなく、不可能ではない。


もう片方の足をベッドに乗せるのはややたやすい。


何故ならばすでに片足はベッドの上に乗っているから、人体の股間つまり股ぐらは約九十度の大きさに開いていて、これが不自然な恰好であるが為に大腿部の筋肉に痛みが生じ、乗せようとする大腿部が、すでにベッドの上にある大腿部へより速かに接近しようとする意志を持つかの如く、ひとりでに動き出す。


この動きを助けてやろうとするならば、上半身をベヅドの上へ仰向きに倒してしまえばよい。


この時、後頭部が枕の上に着地するよう加減して倒したならばあとの動作がより楽になります。

イチオシ~ その7

「夢うつつの記」円地文子著

やがて著者は、新聞記者の円地与四松と結婚しまする。

あまり気に入った相手でもなかったが、「私がずるずると引き摺られていった」といいます。

つまり現状を打破したい思いと、現状のままに生きたいという相反する思いが半々にあったような状況のまま周囲に引き摺られて結婚した、ということか。

この結婚については更にこう書き続けられます。

いえ「彼はその頃私が父の家の娘で持参金などもかなり持って来るであろうと、そんなことを考えのなかに入れてこの縁談をまとめたかったのだと思う。

そういっても彼自身が不誠実なばかりの男でなかったことはたしかです。

結婚を餌にしてペテンにかけたのは私の方だったと思う。

彼と結婚して私はともかく四十年以上の間、しっくりしないなりに生活を続けてきたのである」


イチオシ~ その6

「夢うつつの記」円地文子著

東大教授から貴族院議員になっていた父は、娘が左傾化することに平穏でいられた筈はないのに、更に何も言わなかった。

彼女は何をしても「良家のお嬢さん」という評価がついて回ることに我慢ならない。

「父に対しても、池に放されている魚のようなもので、自由に見えてもその外には出られない、というふうな反擾を持った」。

そんななかで左翼の作家片岡鉄兵と親しくなる。

そのあたりに「お嬢さん作家」という評価を振り捨てたい思いもあったのでしょうか。

イチオシ~ その5

「夢うつつの記」円地文子著

著者は日本女子大の附属女学校を四年修了でやめたあと、個人教授により英語と漢文を学ぶ。

やがて戯曲を書くようになるが、父はそのことには何も言わない。

彼女の「晩春騒夜」が築地小劇場で上演されることになります。

ところが、その芝居の千秋楽の夜に、お祝の小宴に出ていた劇場の主宰者小山内薫が倒れる。

彼の死が新聞に大々的に報道されたこともあって、彼女の名も世に知られるようになる。

この劇的な事件を経た後、当時のインテリの流行だった左翼的な雰囲気にひたることになります。

イチオシ~ その4

「夢うつつの記」円地文子著

巻末の解題によれば、この本は、円地文子氏の最後の書き下ろし作品であるといいます。

著者は去年の十一月に八十一歳で亡くなっています。

その高齢と、題名に「夢うつつ」とあるにもかかわらず、本書には老毫のきざしは微塵もなく、実に清明に冴えわたった高雅な文章です。

著者の父は国語学者として名のある上田万年です。

その父はすでに昭和十二年に亡くなっているが、著者の八十年の生き方には父の影響が陰に陽について回る。

娘から見た父親のことを回想しているうちに、父から見た娘すなわち「私」の実像も次第にはっきりしてくるという階梯を踏んで、このように父と娘の類まれな関係が定着されました。

イチオシ~ その3

「阿部昭18の短篇」阿部昭著

日常的な生活、どこにもありそうな家庭の生活をこう"単純に"書いているようにみえて、それが生々と際立ってくるのは、阿部昭氏の独壇場ともいえる。

単純に書いているように読者に思わせるところが作者の苦心のありどころなのでしょう。

「桃」などには、そういう目立たない技巧が見事に結実していると思える。

「冬。真夜中。月が照っています。子供の自分が、母と桃の実を満載した乳母車を押しています。」

それだけの記憶から、さまざまな記憶が動員され、あれはいつだったか、母と自分が乳母車にのせていたのは、はたして桃だったか、冬の季節に桃など運ばないではないか、と疑問を次々と繰りひろげていくこの作品は、大好きです。

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